2014年 12月 25日
12月23日(祝)は、この冬としては穏やかな日和に恵まれ、本会行事の見学会「幕張から実籾へ花見川西岸の史跡を歩く」は、20名が参加し、集合地点のJR幕張駅から解散地点の実籾駅前の無量寺まで、、中世千葉氏の武石胤盛と武石長胤ゆかりの史跡と、花見川水系の古墳・縄文遺跡などを巡り、充実した見学会になりました。 コースとタイム 幕張駅13:00=愛宕山古墳13:18=猿田神社=大久保城櫓跡13:25=真蔵院(板碑)14:00=武石古墳14:30= 長作諏訪神社15:00=長胤寺(館跡)=天津神社(妙見宮)=築地貝塚= JA「しょいか~ご」(休憩)15:45=実籾3丁目遺跡=無量寺(16:10)=実籾駅 愛宕山古墳 武石三郎胤盛の母(秩父重弘の娘)は故あって海中に身を投げ、漁人の網にかかったその遺骸を葬ったのが、須賀原愛宕山で、7基の石碑を建立したという塚。 社殿の中に「愛宕大権現」の石碑が祀られ、その脇には「貞永元年壬辰三月廿四日」と「下総国千葉郡武石郷」の銘が刻まれています。 かつて、石室があり、直刀、鏃、耳環などの遺物が出土したとのことで、古墳時代の古墳を中世に塚墓として利用したようです。 猿田神社(庚申塔) 祠の中には六臂剣持ち型の青面金剛像の庚申塔が祀られていました。 銘は「奉造立庚申供養男女二世安楽/享保十四己酉/十月吉祥日/下総國千葉郡武石村中」でした。 古墳の可能性が否定できない塚です。 大久保城物見(櫓台)跡 「花見川にぶちぬかれた謎の城」で、物見部分の小山と台地縁辺のわずかの痕跡が残り、大久保城の存在を想像できる遺構です。 真蔵院の板碑 真蔵院は、大同元年(806)興教大師による開山、建久八年(1197年)武石三郎胤盛が、母(秩父氏)の菩提を弔いて柳地蔵菩薩を祀って、中興開山したとつたえられ、阿弥陀一尊板碑「武石の板碑」(千葉市指定文化財)が境内にあります。 武石神社古墳 千葉県千葉郡誌に「幕張町大字武石に在りて武石城址の内にあり。圃中小塚あり上に椎樟等の雑樹を生ず。小石祠あり傍に古墓の壊石あり。土地の人は「おたけ様」と称す。即ち武石様の略にして武石胤親(三郎又は蔵人丞と称す)の墓なりとなす。其の西方40間餘の処又小塚あり、竹篠叢生す。それ其の妻の墓なりとなす。蓋し胤親は足利義明に仕へ其の昔国府臺の戦に討死せしと云ふ。」と書かれています。 古墳群のうちの一基と思われ、中近世に武石一族祭祀の塚として崇敬され、円墳の現状を留めてきました。 長作諏訪神社 武石町の北隣の長作町は、武石長胤が領して拓かれた村で、長胤は千葉常胤の三男、胤盛の曾孫として鎌倉幕府に仕えています。 長作の諏訪神社の創建の時代といきさつは不明ですが、鎌倉幕府は建暦2年(1212)以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止しましたが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外とし、このため諸国の御家人らは諏訪社を勧請して、その御贄狩と称して鷹狩りを続けたともいわれます。 武石氏は諏訪大社に近い長野県旧武石村にも領地があったと推定され、その創建はおそらく長胤の活躍する鎌倉時代ではないかと思われます。 長胤寺 正元元年(1259)千葉一族である武石長胤が長作の地を領し、弘長2年(1262)自らの館を寺として創建したと伝えられる日蓮宗の寺院です。 天津神社(妙見宮) 千葉氏が信奉した神仏で、武石長胤の守り神であった妙見を祀った神社です。 立派な逗子の中にある本尊の妙見像は秘仏で、「昔盗まれたが、寒川の漁師により海中から拾われ、返してもらった」という伝説があるそうです。なお、堂内には、明治18年に奉納された妙見像の絵馬がかかっています。 長作築地貝塚 天津神社から県道の検見川道に至る畑には、縄文中期から後期末の環状貝塚が馬蹄形の広がっていました。現在は住宅地に造成され、「貝塚町会」の名を留めるだけで、現在はその様子はよくわかりませんでした。 実籾3丁目遺跡 実籾三丁目遺跡で日没となりました。 ここの最近の発掘で出た関山式土器など4点が、習志野市の文化財に指定されました。 無量寺 当初小字東堀込にあり、武石氏の祈願寺だったが、天正18年(1590)千葉氏滅亡の際に罹災し衰微し、慶長19年(1614)に東金御成街道を作るとき、村民鶴田重右衛門が当地に移して再興したといいます。 ここで、見学会は終了し、16:20から、実籾駅前のお店で懇親会を開き、一年間の反省や来年の会の計画などを話し合いました。 (以上の写真は、坂本弘さんと蕨由美が撮影しました。文責は、蕨由美です。)
by yatikuriken
| 2014-12-25 00:20
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